MBAの価値低下の原因とは?
「もっと勉強しておけば。。。」
平凡なビジネスマンたるもの、
一度はその思考に至った経験があるのではないだろうか。
私も、今正にその思考に直面している。だが、勉強は手段であり、本質的なものではない。勉強とは、思考する為の手段であり、思考力を磨いておけばという後悔が適切な言い方と言えるであろう。
今朝、こんな記事を目にした。
MBAさえ取れば将来が有望であるとされていた時代が音を立てて崩れようとしている。
それは何故か?私はMBAの地位が下がった要因は下記にあると考える。
1.体系化された知識の価値の低下
現代は、誰しもが想像だにしない技術が生まれ、企業の事業に応用されている。体系的に知識を積み上げている間に、とんでもない価値が日々生み出されているということだ。MBAよりも、一つの実験の方が有益になることが比率的に多くなっている可能性がある。
2.学習プログラムの平準化
学習プログラムがどこも同じになっている可能性があるのではないかと思う。それは、オープンイノベーションに見る知識の共有化とMBAの乱立という側面で説明ができる。知識の共有化については、今やインターネットを通して様々なビジネススクールの授業を受講できる。また無数に設立されたビジネススクールは、トップ校のプログラムを参考にしないわけないのである。その為、今やMBA保持者はどこも変わりはないといえるのではないか。
上記の要因を要約すると「もっと大切なことがある」ということと「そんなに珍しくなくなった」という前提条件を踏まえて、メリットとコストとの比較から、行く価値が低下していると言えるのではないかと私は考える。
心の奥底にある想いは拭えない
現在、クライアント企業のオープンイノベーションの支援を行っている。クライアントは海外のベンチャー企業とパートナーシップを締結し、共同でデジタルサービスを展開するスキームを検討している。
イケてるスタートアップ企業は、VCや大企業が群がっているためか、交渉では強気な感じがするが、大企業では提供できない新しいサービスがシリコンバレーには溢れている。正に旬なビジネステーマであると感じている中で、下記の記事を目にした。
筆者は、オープンイノベーションにおいて重要なことは「多様性を持つ」ということであると(ざっくり)述べている。そして、多様性というのは「異分野としての横」と「立場・年齢としての縦」の軸があるらしい。
確かに、自分の考えや立場に近しい存在しか周囲にいなければ、大胆な発想には到達できないということには共感する。しかしながら、私は思う。
「立場」を縦で切り取っている限り、我々はそこから離れることができない。
「エスタブリッシュメント(政官財の主流派)、非エスタブリッシュメント」
「持てる者、持たざる者」は確かに存在する。
しかしながら、そんなステレオタイプな差別的な考え方を持つ人間に一体どんな新しい世界が生み出せると言うのだろうか。
「革新」という言葉を語る人間は、そんなものをもろともしない世界を作り出してほしいし、私もそこに少しでも貢献したい。
それが、我々の周りにある課題なのだ。
不良になった瞬間から持つことができる一つの才能
中学校の頃、私の周りは不良に溢れていた。
私は野球部に所属していたが、その部は先生たちから特に問題視されており、その中で仲が良かった友人は地元では一番の不良だと目されていた。(彼は後に暴走族になっていた。)私は学年委員を3年連続で務めあげ、成績は良くて一般的には優等生の部類には入るタイプだったが、なぜかそういう不良とはウマが合った。(但し私も問題を起こしていたことは否定しない)
彼らは恐れられる存在でもあるが、一方で強い異彩を放っている。それに吸い寄せられるのは多くの人が頷けることではないだろうか。
昨年アメリカで起きた一つの出来事が海を渡り、ちょっとした話題になっていたことを記憶している方も多いと思う。
彼らが不良ということは断言できない。
ただひとつ言えることは刑務所にいるという事実だ。そして、刑務所にいるということは彼らが何か法律を犯したということだ。
そんな彼らがハーバード大学生に知性を求められる言葉の戦争、すなわち討論で打ち勝ったのだ。事実を耳にするだけで、彼らの努力を想像できるなんて素晴らしいのだろう。ただし素晴らしい出来事さえも、すぐに映画化の話が出てくることなんてめったにないだろう。そんなことが起きるのは、とてつもない魅力がなければ成し得ない。私が思うことは、彼らは不良(記事で言う犯罪者)になった時点で、ある大きな財産を与えられるのだと思う。
それは「劇的」を引き起こすことができることだ。「劇的」が起きた瞬間、彼らが見ている世界の色は大きく変わる。その劇的を求め、人は集まってくるのである。
一方で、世の中で喝采を浴びるためには、必ず人々の共感を生み出すストーリーが必要だ。ただ、劇的という要素は普段生活している人には決して身近なことではない。それが、なぜ共感を生み出すのだろうか。
それは失敗を繰り返す人間だからこその特性であると思う。
失敗しても、最後には成功する。(逆も然り)
誰しもが経験したことがあり、最も嬉しさ(悲しさ)が頂点に達する。程度の差はあれ、それが自身の経験と重なるのだろう。そして、失敗と理想の差を離せば離すほど到達した時の喜びは大きくなる。
つまり、「劇的」と人間の生き方は相関関係にあるのだ。(但し、皆「劇的」を味わえるわけではない。自ら経験を求めている人もいないだろう)不良は、その劇的を生み出すことができる存在だ。人が手に入れにくい要素を持っているのだ(与えられていると考えることもできる)
私はその可能性が、多くの人々を惹きつける異彩を放っているのではないかと感じてならない。
直木賞作品「流」は語る-見えなくてもいい。そこにあればいい。
20年に1度の傑作と称される今年の直木賞受賞作品の「流」を読んだ。
同じタイミングでピースの又吉が書いた作品「火花」が芥川賞を受賞したため、
あまり大きく注目を集めていなかったがかなり面白かった。
台湾を舞台に主人公が祖父の死、高校中退(大学受験の失敗)、失恋など人生の辛い部分を経験して成長していく物語だ。ミステリー賞を受賞した経験がある著者なので、読み始めた当初は祖父の殺害にまつわる推理が展開されていくのかと思いきや、全く違う話に入り込むことがしばしばある(主人公も途中忘れていたとか、思い出したとか言ってるし。)
実際に読んでいて私もそのことを忘れたりするのだが、忘れることが損ではないくらい他のエピソードもすごく面白い。台湾に行ったことがない自分でも、街の熱気と当時の台湾が抱えていた問題を垣間見ることができた。
中国と揉めていた時代の台湾であることや、(祖父の血を引いているためか)少々暴力的な主人公にあまり共感できないという感想も聞こえてきそうだが、私は大いに主人公に若き日の苦悩と喜びを重ねあわせることができた。
そんな大衆文学的なエンターテイメント性もあるが、それだけでは傑作とは呼ばれないだろう。私が考える喝采の要素は、文中にあるこの主張であると感じている。
「~もしここで袖手傍観をしてしまったら、私はこれから先、臆病さを成長の証だと自分に偽って生きていくことになるだろう。人は成長しなければならない部分と、どうしたって成長できない部分と、成長してはいけない部分があると思う。その混合の比率が人格であり~」
主人公の成長に共感する一方で、祖父や宇文おじさんの”成長してはいけない部分”に大いに共感した。というよりは、嬉しかったのだ。こう考えてみると、登場人物の役割分担は素晴らしいの一言に尽きる。
戦争で多くの人を殺しても、忌み嫌われる祖父でも必ず人の大切な部分が残っているのだ。因縁に囚われてた宇文おじさんでも必ず人の大切な部分が残っているのだ。
世の中、人の人生は流れて、数年前の景色や関係はガラッと変わってしまう。
でもきっと大切なモノは流れずに心のどこかに留まっているはずだ。
それは見えなくてもいい。そこにあればいいのだ。
それを感じ取ることが人生だ。
喝采。
それでもあなたの根拠は根拠であり続けるか?
戦後70年~特攻できなかった祖父が見た月の色は~
「祖父が予科練の特攻隊に所属していた。」
父親から17歳の時にその事実を聞いた。
その時、自分は高校を中退してスレていた年頃であったが、
色々なことを考えさせられた。
「国のために命を捨てる。そのために勉強して予科練に入った。」
自分と同じ年でそんなことを考えられるなんてと驚愕した記憶がある。
それから祖父を尊敬するようになった。
しかしながら、こう思ったこともあった。
「特攻を決意していたにも関わらず、その前に終戦してしまった事実とどう向き合ったのか?」
終戦前に特攻した友人と何を話したのだろう。
持っていた決意を胸に、玉音放送を聞いた時にどう思ったのだろう。
色々な想いが交錯していたのは確かだろう。
今となっては確かめようもないが、一生拭い切れない後悔を持っていたかもしれない。
だけど、生き抜いたのだ。激動の時代を。
それだけで充分すごいことなんじゃないかな。
国のために、何かをすることは色々な形でできると思う。
それは結局、生きているからできることなのだ。
林業を営んでいた祖父が心晴れやかに生きてきたことを今も願う。
そして、見上げる月は真っ白であったこと願う。
自分は祖父が特攻しなかったことで生まれたのだ。
反省も大事だけど、感謝も充分に込めて。これからも生きよう。
もっと遠くまで
約3年間働いた会社を退職しました。