当たる・当たらん・当たれ-喝采と苦悩の実証

コンサルティングファームに勤める男が世の中で喝采されている事象、モノや日々の苦悩を深掘りして考えたことを棚卸しします。

不良になった瞬間から持つことができる一つの才能

中学校の頃、私の周りは不良に溢れていた。

私は野球部に所属していたが、その部は先生たちから特に問題視されており、その中で仲が良かった友人は地元では一番の不良だと目されていた。(彼は後に暴走族になっていた。)私は学年委員を3年連続で務めあげ、成績は良くて一般的には優等生の部類には入るタイプだったが、なぜかそういう不良とはウマが合った。(但し私も問題を起こしていたことは否定しない)

 

彼らは恐れられる存在でもあるが、一方で強い異彩を放っている。それに吸い寄せられるのは多くの人が頷けることではないだろうか。

昨年アメリカで起きた一つの出来事が海を渡り、ちょっとした話題になっていたことを記憶している方も多いと思う。

 

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彼らが不良ということは断言できない。
ただひとつ言えることは刑務所にいるという事実だ。そして、刑務所にいるということは彼らが何か法律を犯したということだ。

そんな彼らがハーバード大学生に知性を求められる言葉の戦争、すなわち討論で打ち勝ったのだ。事実を耳にするだけで、彼らの努力を想像できるなんて素晴らしいのだろう。ただし素晴らしい出来事さえも、すぐに映画化の話が出てくることなんてめったにないだろう。そんなことが起きるのは、とてつもない魅力がなければ成し得ない。私が思うことは、彼らは不良(記事で言う犯罪者)になった時点で、ある大きな財産を与えられるのだと思う。

 

それは「劇的」を引き起こすことができることだ。「劇的」が起きた瞬間、彼らが見ている世界の色は大きく変わる。その劇的を求め、人は集まってくるのである。

一方で、世の中で喝采を浴びるためには、必ず人々の共感を生み出すストーリーが必要だ。ただ、劇的という要素は普段生活している人には決して身近なことではない。それが、なぜ共感を生み出すのだろうか。

それは失敗を繰り返す人間だからこその特性であると思う。

失敗しても、最後には成功する。(逆も然り)
誰しもが経験したことがあり、最も嬉しさ(悲しさ)が頂点に達する。程度の差はあれ、それが自身の経験と重なるのだろう。そして、失敗と理想の差を離せば離すほど到達した時の喜びは大きくなる。

つまり、「劇的」と人間の生き方は相関関係にあるのだ。(但し、皆「劇的」を味わえるわけではない。自ら経験を求めている人もいないだろう)不良は、その劇的を生み出すことができる存在だ。人が手に入れにくい要素を持っているのだ(与えられていると考えることもできる)

 

私はその可能性が、多くの人々を惹きつける異彩を放っているのではないかと感じてならない。


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