直木賞作品「流」は語る-見えなくてもいい。そこにあればいい。
20年に1度の傑作と称される今年の直木賞受賞作品の「流」を読んだ。
同じタイミングでピースの又吉が書いた作品「火花」が芥川賞を受賞したため、
あまり大きく注目を集めていなかったがかなり面白かった。
台湾を舞台に主人公が祖父の死、高校中退(大学受験の失敗)、失恋など人生の辛い部分を経験して成長していく物語だ。ミステリー賞を受賞した経験がある著者なので、読み始めた当初は祖父の殺害にまつわる推理が展開されていくのかと思いきや、全く違う話に入り込むことがしばしばある(主人公も途中忘れていたとか、思い出したとか言ってるし。)
実際に読んでいて私もそのことを忘れたりするのだが、忘れることが損ではないくらい他のエピソードもすごく面白い。台湾に行ったことがない自分でも、街の熱気と当時の台湾が抱えていた問題を垣間見ることができた。
中国と揉めていた時代の台湾であることや、(祖父の血を引いているためか)少々暴力的な主人公にあまり共感できないという感想も聞こえてきそうだが、私は大いに主人公に若き日の苦悩と喜びを重ねあわせることができた。
そんな大衆文学的なエンターテイメント性もあるが、それだけでは傑作とは呼ばれないだろう。私が考える喝采の要素は、文中にあるこの主張であると感じている。
「~もしここで袖手傍観をしてしまったら、私はこれから先、臆病さを成長の証だと自分に偽って生きていくことになるだろう。人は成長しなければならない部分と、どうしたって成長できない部分と、成長してはいけない部分があると思う。その混合の比率が人格であり~」
主人公の成長に共感する一方で、祖父や宇文おじさんの”成長してはいけない部分”に大いに共感した。というよりは、嬉しかったのだ。こう考えてみると、登場人物の役割分担は素晴らしいの一言に尽きる。
戦争で多くの人を殺しても、忌み嫌われる祖父でも必ず人の大切な部分が残っているのだ。因縁に囚われてた宇文おじさんでも必ず人の大切な部分が残っているのだ。
世の中、人の人生は流れて、数年前の景色や関係はガラッと変わってしまう。
でもきっと大切なモノは流れずに心のどこかに留まっているはずだ。
それは見えなくてもいい。そこにあればいいのだ。
それを感じ取ることが人生だ。
喝采。