誰かの欲望はいつの日かきっと誰かのために
神の見えざる手を知っていますか。
アダム・スミスの国富論に現れる言葉であり、個人が利益を追求することによって、社会全体の利益となる望ましい状況が「見えざる手」によって達成させられるという考え方です。
経済上のロマンある話で、すごく心が高まります。
(神っていう言葉は後付らしいですが。)
そんな経済の中で私は現在新規事業をやっているのですが、まぁホント色んな意味で大変です。。。
そして、新規事業とはこの「見えざる手」を如何に早く見つけることができるかが勝負なんだってすごく痛感してます。シンプルに言うと新しい「仮説」を正しい価値に早く作り直す作業が絶対重要!っということです。
まぁ、いきなし爆発的に売れる可能性がある(昔のたまごっちみたいな)プロダクトではなく、スモールスタートのサービスという条件になりますが。
(供給)提供価値=ニーズ(需要)が合致して、適正な価格の均衡が取れるポイントを見つけることで、初めて事業としてまともにスケールしていくんだろうな~って思います。
サービスの場合、それを機能開発や顧客の声を反映しスピーディーに対応していく必要があります。
※逆にプロダクトの場合は、そう簡単には機能を変えられないため、市場に投入する前に仮説を極限まで高めなければなりません。だからこそ、莫大な投資を売りだす前の開発や企画にするのかなと。
均衡ポイントを掴むスピードがなければ、資源(ヒト・モノ・カネ)が尽きる、すなわちその市場から撤退しなければならない状況になる。もしくは、競合にそこの市場をほぼ独占されるということです。
仮説って実のところ、発想者の欲望(~したい、~があれば幸せ)です。
すなわち、大きな理想なのです。その最初の供給側の理想を、どれだけ現実に落としこみ、本当の顧客のニーズに対応できるかが重要です。(~したら誰かが幸せみたいな)
神の見えざる手のように自動調整みたいなことを待っていても仕方ありません。今の時代、自らの手で均衡を生み出していくことが重要だと思います。
貴方の欲望も誰かの為になるのかも。
アルジャーノンとギャツビーに見るイノセンス ~儚い夢を追うの美の不思議~
遂に「アルジャーノンに花束を」がドラマ化されてました。
元々大好きな小説だけに毎週欠かさず見てますが、実際はあまり人気がない様子です。。。
山下智久主演「アルジャーノンに花束を」第2話は7・9%
http://www.sponichi.co.jp/entertainment/yomimono/drama/2015/04_06/hanataba/kiji/K20150420010210700.html
原作とドラマのシナリオが違うことに対して違和感を抱いているファンや、
山下智久の役回りを見てて嘆いているファンにとって面白いとは言えないかもしれません。ですが、これから咲人の頭が良くなっていき、色々なことを知っていく姿が楽しみです!
この物語を見ていると、同じくアメリカの代表的な作品である「華麗なるギャツビー」と共通のテーマがあるように感じます。それは「儚い夢を追いかけ続けるイノセンス」です。
それぞれの主人公は大きなコンプレックスを抱いており、それをバネに大きな夢を実現させようと、無謀とも言える大きな挑戦します。
ギャツビー
⇒貧乏育ちがお金持ちのお嬢様を手に入れるために、悪いことでお金を稼いで成り上がる。
チャーリィ(咲人)
⇒知的障害を持っていたため、母親に愛さなれなかった。頭が良くなる手術をして、天才的な頭脳を手に入れようとする。
2作品ともアメリカを舞台にしているため、
やはり「夢を追う」ということが徹底されているようです笑
でも、最後は本当の意味で手に入らない。結果的に大きな損失を被ってしまった主人公たちの最後はとても悲しくなります。
ですが、そのひたむきさ、苦しみながら欲しいものに手を伸ばそうとする姿に感動を覚えます。きっと純粋に夢を追う姿は、誰かに希望を与えるのではないかと思います。
色々な知識や経験を経て、無謀な純粋な夢を諦めてしまう。それが大人になることでもあるような気がします。
そんな青年のような、いつかに忘れてしまった「イノセンスな夢」を気付かせてくれる。だからこそ「名作」に挙げられるのではないでしょうか。
「それはあのとき我々の手からすり抜けていった。でもまだ大丈夫。明日はもっと速く走ろう。両腕をもっと先まで差し出そう。……そうすればある晴れた朝に――」
華麗なるギャツビーの最終章にある言葉を胸に。